『恋ばっかりもしてられない』という本がかつてあった。
今日はなんだか、「○○ばっかりもしてられない」というフレーズがいくつも浮かんできた。
仕事ばっかりもしてられないし、運動ばっかりもしてられない。外遊びばっかりもしてられないし、外食ばっかりもしてられない。
やることが多すぎるし、行きたい場所がありすぎる。
特に用事を入れなくてもよかったのに、あちこち用事を入れてしまう。
ゆっくりすればよかったのに。それでも動き続ける。
誰かに会い、話し、食べて、飲んで(たいていはお茶だけど)。
そう。
なにが話したいかって。
かつて、恋なんか二度としないと決めた、みたいなことを書きました。
はい、書いてました。
そのあと、どうなったかというと。
よくわかんないんだけど。
やっぱり。
なんだか
恋ばっかしている。(ような気がする。)
という結果が見えてきたのであります。
でもでも。
恋はしない、と決める前と、決めたあとの恋では、なにかがあきらかに違う。
ちょっとこれは、なんか書き留めておかないといけないんじゃないかと。
思い始めて、けっこう時間が経ってしまった。
たぶんそれは、2024年の3月くらい前から始まった。
たぶんだけど。恋なんかしないと思うくらいの傷を自覚した日から、1年も経ってない。
そのときの恋は、誰にも話そうと思わなかったんだけど。いや、誰かの苦しい恋心の一助になるのだったら、書いてもいいかなと思っている。
長くなりそうなんで、とりあえずさらっと。
ともかく、恋をしないと決めたあとの恋は、さわやかで軽やかだったという話。
その人のことをイニシャルとかですら呼びたいと思わない。密かに短編小説を書き上げてしまったくらい面白い人だった。単に、「彼」と書こう。
彼に惹かれたとき、彼には彼女がいると知っていた。彼はそれを言わなかった。一度も。だからふいに惹かれていることに気づいたとき、その瞬間に、フラれたんだと思うことにした。何度も惹かれたけれど、惹かれた瞬間に、好きになっても、その先にはなにもないんだと、自分の心に知らせ続けた。
だけどさ。
今にして思うけど。
彼女がいるかどうかなんて、関係あったのかな。
もし好きの気持ちに蓋をしている人がいるのなら、その蓋、そっと開けておいたらと、言いたい。
私はさ。
「好きかも」の感情のすぐそばに、「実はあんまり興味ないかも」な部分も、大きかった。一緒にいられないだろうなーという部分がいくつもあることに最初から気づいていた。
だから、彼の爽やかすぎる笑顔の前にいつも風が吹き抜けていくように、颯爽と身を引くことも、心をそっと離すことも、わりと簡単だった。
結局、彼とはなんもなかったからさ。
今では街でばったり会っても、爽やかに挨拶なんかできちゃうわけ。
それで。
以前の恋を振り返ってみたんだけど。
若い頃(といっても、うーーん、30代半ば??いや、40でもそうだったかな?)、けっこう苦しかったのね。
いやだいぶ苦しかった。
好きと気づいたときには(そして相手も同じかもと思ったときには)、それは楽しいんだけど、その後にどん底の気分になるみたいなことがけっこうあった。
それで、その負の気分のループからどうやっても抜け出せない、みたいなことがさ。
ないですか?
私はけっこうあったんですよ。毎晩泣いたりとかさ、それも何年も泣きつづけていたりとかさ。
その抜け出せない苦しさが、あれ以降、一切ない。
ありがたいことだね。
ちなみにかなりの傷の原因となった人とも、今だに、というかその前からずーっと親友だったりもするのでして。
人生って、面白いなと、そんなふうに思えるような心境まで、生かしていただいていることに感謝しかない。
それで、ですね。
「彼」への想いなんかは、淡い煙のようにフェードアウトしてどっかいっちゃって。
それ以降もいろんな人とおしゃべりしたり、出会ったりもしていて。
それは、恋愛とかの出会いじゃなくて。普通にイベントやお店いってしゃべるとかもあるんだけど。
男女とかは関係なく、パートナーがいるとか既婚とか子どもいるとか、そんなの超えてる。ただお互いに気が合って、共通の話題があって、楽しいからしゃべって、じゃあねってバイバイするだけ。
それがいろんな人がどんどん増えてって、ただ自然と会い続ける日々。
ある友人の手伝いのためにいろんなイベント出て活動をしているうちに、また知り合いが増えたり、新たに話をする人が増えたりと。なにやら忙しくなってまいりまして。
また、
またまた、
出会ってしまったんですよ。
恋ってやつに。
いや、これは恋なのか。
わからん。これが恋って、認めたくない自分もいる。
だけど、この嬉しい気持ちに蓋をしていいのか?
もうストレートに出していいんじゃないかと思うし、そのお方と私の気性を掛け合わせたら、おたがいに嘘なんかつけないんですよ。(ここではその人を「そのお方」と書いておこう。)
たぶん、これはなんなんだとか、いやちょっと待てよとか、考えてる暇もないくらい、早い。一瞬で展開するんですね。この、いろんなことが。
まだ始まったばかりだし(いや始まってもいない)、回り始めた星が回り続けるために、詳細は書かないでおこうと思いますが。
数年前のあのときは、こんな時期が、苦しまずにこの気持ちを見つめるみたいな日が、やってくるとは知らなかったんですよ。
そして、もう傷つく余裕がないから恋をしないなんて、あのときの自分のように思う人がいるとすれば、とりあえずここに書いておきたい。
あの世にいったら、このうごめく感情は、無になるという説があります。
感動も、喜怒哀楽もない。
美しい景色を見ても、何も感じないとかって。そんな話を聞いたことがありまして。
だったら、どんな感情であっても、たとえまたあのときのような悲しみのループに入ってしまうとしても(以前よりはその感情をなんとかできる気もしてる)、経験したほうがいいんじゃないかなと。
今はもう、喜びは喜びとして、ワクワクを出していきたい。
この世界が夢なら、っていう話も、以前書いたのですが。
この世界が夢なら。私がバカみたいにワクワクして、あとでそんな浮ついてるのは私だけで、そのお方はべつになんにも思ってなかったとわかったとしても。夢から覚めたら、あれ、なんだっけ?となるかもしれない。
あれが夢だったのなら、思いっきり、感情出しておけばよかった、勘違いでも、思いっきり喜んで、幸せを感じておけばよかった。とりあえず、正面切って、恥ずかしくても、どもっても、泣いても、あのときなんか伝えておけばよかった。なんて、思うかもしれない。
感情とか、こうしようと思っているのとは別のところで、体のほうが行くべき場所を知っていて、そこへ連れていってくれる、ということがときどきあります。
体の感覚を大事にしていると、そういったことが起こりやすい。
すごくつまらない例なんだけど、駅のホームで、あの辺で電車待とうを思って歩いているのに、ふと体が止まって、まあここでいいかと思って、行こうと思ってた場所とはだいぶ手前で待つ、といったことはないでしょうか。
それでなんか無理やり、最初に思った場所まで歩いていったら、なにか起こったんだろうかといえば、それは大したこともないんだろうけど、そんな小さなところからでも、私は体の声というか、感覚にまかせて、ある程度、体の言うことを大事にしています。
だから今、なんでこんなふうに気持ちが動くのかと、理由を考えたり分析したりすることが大事だという人もいるだろうけど、ある程度感覚が頼りになる状態であることがわかっていれば、考えないで体の感覚に委ねるというのも、大事なんじゃないかなと思うのです。
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